「松前線」の歴史(終戦から現在まで)
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松前線 の歴史(終戦から現在まで)
1946年(昭和21年)12月
渡島吉岡・渡島大沢間開通。渡島大沢駅を新設。
戦後、漁業開発を目的に上記区間が開通したが、その先の区間については敷設の主目的としていた資源開発の重要度が低下したことと、経済的混乱を理由に再開が遅れていた。しかし昭和26年頃の運輸省内部では、路盤工事がほとんど完成していた渡島大沢・松前間については、地方福祉と冬季の輸送機関確保の観点から完成させる意向を持っていたことが窺える。
1953年(昭和28年)04月渡島大沢・松前間の工事が再開。
1953年(昭和28年)08月01日「鉄道敷設法等の一部を改正する法律」が公布
別表第2号ノ2「青森縣三厩附近ヨリ渡島國福島附近ニ至ル鐡道」が予定線に追加される。いわゆる「青函トンネル」
1953年(昭和28年)10月松前開通時に線名を「福山線」から「松前線」に改名決定。
1953年(昭和28年)11月08日渡島大沢・松前間が開通。松前駅を新設。
1954年(昭和29年)09月檜山支庁長等が道南西海岸鉄道(松前・大島間含む)敷設を陳情。
1956年(昭和31年)気動車運行開始
1957年(昭和32年)01月25日白符駅、及部駅を新設。
1961年(昭和36年)福島町で松前線レールバス化反対町民大会が行われる。
1962年(昭和37年)12月25日重内駅を新設。
1964年(昭和39年)03月鉄道新線の建設を目的とした「日本鉄道建設公団」が設立。
松前・大島間の工事区間は公団には引き継がれなかった。
1964年(昭和39年)05月青函トンネルの北海道側吉岡調査斜坑着工。
1968年(昭和43年)09月国鉄諮問委員会が意見書「ローカル輸送をいかにするか」を提出。
いわゆる「赤字83線」。江差線は木古内・江差間が部分的に廃止対象となったが、松前線は対象とならなかった。赤字であったであろう松前線が対象とならなかった理由として、意見書提出当時では、青函トンネルは在来線規格で建設して福島町内で松前線に接続させ、木古内から江差線で函館方面に列車を通す計画であった為と推測される(*1)。意見書は、後の特定地方交通線選定時とは違い、一路線を部分的に指定しているところが画期的であるが、結局江差線全体でみれば今回の廃止基準をクリアするとの主張と、国鉄の駅の無い支庁所在地を作らない等の政治的な要素もあったらしく(2014年の江差線木古内江差間廃止まで続いた)、木古内・江差間の廃止交渉は国鉄の計画通りには進まなかったのではないかと推測される。
1968年(昭和43年)国道228号線白神岬ルート開通。
未舗装であったが吉岡峠越え(*2)が無くなり、移動時間が大幅に短縮された。
1970年(昭和45年)03月青函船舶鉄道管理局、「営業体制の近代化について」発表。
国鉄の「国鉄財政再建一〇か年計画」に基づき作成され、松前線の小駅無人化を計画していた。
1970年(昭和45年)04月沿線自治体、「国鉄江差・松前線新営業体制反対期成会」結成。
近代化計画の撤回を陳情する。
1972年(昭和47年)03月碁盤坂駅を千軒駅に改称。
1972年(昭和47年)年12月松前町内国道拡張(バイパス建設)工事に着手。
松前町が大磯・原口間の鉄道敷地を国鉄から買収、さらに赤神・江良間を国が買収した。この時点で松前から大島(原口)方面への延長は完全に停止する。
1980年(昭和55年)年11月「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」成立。
1982年(昭和57年)11月06日沿線四町担当課長による「第一回国鉄松前線存続対策打ち合わせ会議」開催。
1982年(昭和57年)11月15日全線で貨物営業を廃止。
1982年(昭和57年)11月22日「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法施行令」公布。
これにより、第2次廃止対象特定地方交通線に選定される。
1982年(昭和57年)11月29日より松前線存続要請のため関係各機関へ陳情が行われる。
1982年(昭和57年)12月28日「国鉄松前線存続期成会」設立。
松前線存続運動のポスター等が「fukushima photo circle 思い出のアルバム」(リンク切れ)に紹介されています。
1983年(昭和58年)05月21日存続期成会、「国鉄松前線廃止反対住民総決起大会」を松前町で開催。
1984年(昭和59年)06月22日運輸大臣が松前線を廃止承認。
1984年(昭和59年)09月01日松前線の第一回対策協議会開催。
1984年(昭和59年)10月25日第二回対策協議会開催。協議会を一旦中断する。
松前線の対策協議会は第二次廃止対象路線のトップを切って行われた。これは、直近では廃止基準をクリアしていることから、早期に協議会を開いて廃止基準をクリアしていることを確認させて協議会を中断し、廃止手続きを進行させない戦略であった。しかし、これによって存続が決定したことにはならず、今後半年毎に実績を調査し、廃止基準を下回れば、廃止に向けた協議に入ることとなっていた。
1985年(昭和60年)05月10日第三回対策協議会開催。
引き続き廃止基準をクリアしていることから、更に半年間の協議会中断となる。
1985年(昭和60年)08月27日国鉄、前年度経営成績を発表。
廃止基準を下回ったことが明らかになる。
1985年(昭和60年)10月18日第四回対策協議会開催。
廃止基準を下回ったことから実績の推移を再検証するが、廃止後の代替輸送機関も検討する等、協議会の内容が変わっていった。
1986年(昭和61年)05月07日第五回対策協議会開催。
引き続き廃止基準を下回っていることが報告される。
1986年(昭和61年)08月08日第六回対策協議会開催。
引き続き廃止基準を下回っている報告と、バス転換と第三セクターでの鉄道転換の収支試算が示され、検討に入る。
1987年(昭和62年)04月01日国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道が承継。
1987年(昭和62年)06月09日転換問題に対応するため「松前線転換対策協議会」を設立。
「国鉄松前線存続期成会」は前日に解散。
1987年(昭和62年)07月16日第七回対策協議会開催。
松前線の廃止、バス転換を了承。同時に、国道228号線の白神トンネル拡張、除雪体制の充実、湯の里に設けられる信号所(現湯の里知内信号所)の乗降駅への昇格が要望された。
1987年(昭和62年)10月08日第八回対策協議会開催。
バスへの転換日を昭和63年2月1日とすることで決定。
1987年(昭和62年)12月18日第九回対策協議会開催。
転換交付金15億2千4百万円の充当計画が決定。対策協議会は今回で終了。
1988年(昭和63年)01月31日最終運行
1988年(昭和63年)02月01日松前線廃止。函館バスが代替バス運行開始。
1988年(昭和63年)03月13日青函トンネル開業。吉岡海底駅開業。
1989年(平成元年)11月国道228号線の新・白神トンネルが完成。
1990年(平成02年)07月01日海峡線の新湯の里信号場を旅客駅化し「知内駅」に改称。
2014年(平成26年)03月15日吉岡海底駅廃止。知内駅旅客扱が廃止され知内信号所となる。
2014年(平成26年)05月12日江差線の木古内・江差間廃止。
2016年(平成28年)03月26日北海道新幹線木古内駅開業。江差線の木古内・五稜郭間は「道南いさりび鉄道」に移管。
*1
1966年(昭和41年)の日本鉄道建設公団の資料「青函トンネル」によると、青函トンネルの総延長は36.4km。北海道側陸上部となる吉岡起点5.3km地点で地上に出て、松前線の渡島福島駅につながる計画であった。しかし、1971年(昭和46年)04月に、運輸大臣が本坑の設計を新幹線も通れる規格にするよう指示、同年09月に、勾配を緩やかにして出口を湯の里付近と改めた工事実施計画を運輸大臣が認可したことにより幻となってしまった。
*2
第1次吉岡峠(吉岡〜荒谷川〜荒谷 大正10年10月完成)と第2次吉岡峠(吉野〜スズキノ沢〜白神 旧国道228号 昭和6年6月完成)があり、第2次吉岡峠については「野山とバイクと釣りと戯言: 林道&ツーリング」や「自転車で峠越え」にレポートがあります。また更に古い吉岡峠(松浦〜白神川〜白神)については「一人歩きの北海道山紀行 いにしえの旧道・白神山道」にレポートがあります。
参考文献:
松前町史 通説編 第二巻
沿線各町町勢要覧
森口誠之著 鉄道未成線を歩く(国鉄編) JTB ISBN4-533-04208-2
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