松前線 の歴史(明治から終戦まで)
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松前線 の歴史(明治から終戦まで)
1892年(明治25年)06月
鉄道敷設法公布
1896年(明治29年)05月北海道鉄道敷設法公布
1910年(明治43年)01月渡島開発期成同盟会が「交通機関整備方請願」を政府と貴・衆両院に提出。
この中で「函館より木古内を経て江差に通ずる鉄道」「国縫より瀬棚に通ずる鉄道」「木古内村より福山(松前)に通ずる鉄道」とあり、まず函館から江差への鉄道があり、途中駅から分岐して松前に向かう別の線区があるという位置づけである。後の改正鉄道敷設法にも同様の表現となり、この主従関係が、約70年後の第2次廃止対象特定地方交通線選定に大きく影響することとなる。
1910年(明治43年)04月軽便鉄道法公布
1912年(大正元年)松前鉄道期成同盟会設立
1912年(大正元年)12月松前鉄道期成同盟会が「松前鉄道布設請願書」を帝国議会に提出。
1913年(大正02年)09月上磯軽便線 五稜郭・上磯間開通
1913年(大正02年)11月松前鉄道期成同盟会が「松前鉄道速成之請願」を各方面に提出。
1921年(大正10年)01月松前鉄道期成同盟会が「松前鉄道布設速成の件」を帝国議会に提出。
1922年(大正11年)01月改正鉄道敷設法公布
別表北海道ノ部 一二九「渡島國上磯ヨリ木古内を經テ江差ニ至ル鐡道及木古内ヨリ分岐シテnRニ至ル鐡道(昭和17年にnRから大島(旧大島村、現松前町の北部に位置し清部・江良・原口集落が該当する)に変更)
福山(松前)方面への敷設予定が明記がされたものの予算不足から工事開始は延び延びとなり、これに対し同盟会等は陳情を繰り返した。松前町史では、当時、道内の鉄道建設は石炭輸送と開拓農地発展の為の輸送手段確保が優先され、上磯は当時からセメント工場が稼働していたので、その輸送手段確保の為に上磯までは早期に鉄道が敷設されたが、これらの期待できない地域への予算割り当ては優先順位が高くなかったと考えられる、と分析している。
「上磯軽便線」を「上磯線」に改称。
1927年(昭和02年)01月黒住成章代議士が「渡島半島西海岸線鉄道敷設促進に関する建議」を衆議院に提出。
1927年(昭和02年)10月上磯・茂辺地間起工
1927年(昭和02年)12月川内道会議員が「鐡道布設速成に關する件」の建議を道会に提出。
木古内から松前方面への鉄道敷設の請願は続けられたが、建設費が一哩あたり40万円と見込まれ、当時の最高額35万円を超える為に採算性への疑問があったこと、また恐慌などの経済情勢等で起工が遅れていた。その為、鉄道省では鉄道ではなく省営バス運行も検討されていた。
*サイト「裏辺研究所」の「鉄道路線古地図」で、省営バスが検討されていた事実が確認できます。
上磯線 上磯・木古内間開通
1935年(昭和10年)04月木古内・福山(松前)間の工事が鉄道省北海道建設事務所の所管に編入。
これにより工事が具体化する。
1935年(昭和10年)10月木古内・知内間起工
1935年(昭和10年)12月上磯線 木古内・湯ノ岱間開通
1936年(昭和11年)11月上磯線 湯ノ岱・江差間開通。「江差線」に改称。
1936年(昭和11年)06月知内・湯ノ里間起工
1936年(昭和11年)07月湯ノ里・茂山トンネル(千軒・渡島福島間)間起工
1937年(昭和12年)10月12日「福山線」として 木古内・渡島知内間開通。
森越駅・渡島知内駅を新設。
1938年(昭和13年)04月国家総動員法公布
1938年(昭和13年)04月福山町に建設予定の停車場名を町関係者が協議し「松前」駅に決定。
1938年(昭和13年)10月21日渡島知内・碁盤坂(千軒)間開通。
湯ノ里駅・碁盤坂駅を新設。
1938年(昭和13年)度内北海道建設事務所が資材統制の為、碁盤坂より先の工事は無期延期を発表。
これ以降関係者が復活陳情を繰り返すが、資金難と資材不足で工事は進まなかった。
1940年(昭和15年)07月「福山町」を「松前町」に町名変更。
1940年(昭和15年)度内国策会社「帝国鉱業株式会社」が松前に進出。
1941年(昭和16年)06月頃マンガン輸送の為、国策として秘かに松前までの工事再開準備が進む。
1941年(昭和16年)09月頃鉄道建設を目的に朝鮮人勤労報国隊が松前に入り工事が本格化する。
1941年(昭和16年)12月関係各町村長名で、軍事産業強化と食糧増産を請願理由で延長工事速成陳情
対英米宣戦布告日付の「陳情書」
1942年(昭和17年)01月鉄道省、碁盤坂・福山間を昭和19年度完成を発表。
さらに追加として福山・大島間を昭和17年度着手、昭和19年度完成も発表される。この時点で鉄道省内では、木古内・福山間は「福山線」、福山・大島間が「松前線」となっている。
1942年(昭和17年)11月01日碁盤坂・渡島吉岡間開通。
渡島福島駅・渡島吉岡駅を新設。
1943年(昭和18年)09月朝鮮人勤労報国隊の殆どが砂原方面に移動、渡島吉岡・大島間の工事が事実上中断。
函館本線う回路(砂原線)建設の為。この時点で、渡島大沢・大島間工事区間の内、渡島大沢・館浜(現松前町館浜集落付近)間の路盤が完成、館浜・原口(現松前町原口集落付近)間の路盤が五割程度と橋脚・護岸がほとんど完成していた。
注 「松前線」が意味する区間は時代により異なるが、このサイトでは全ての時代において「木古内・松前または大島間」を表し、「松前・大島間」を特定する場合は「未成線区間」または「工事区間」と表現する。
参考文献:
松前町史 通説編 第二巻
森口誠之著 鉄道未成線を歩く(国鉄編) JTB ISBN4-533-04208-2
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